学校の沿革・歴史

1.学校の始まり

禅幢寺 創校当時、分教場として使われていた禅幢寺

 明治34年4月1日、博労畳町尋常小学校が生まれました。

その前の年(明治33年)高岡に大きな火事があり、高岡尋常小学校という富山県一大きな学校が焼けてしまいました。そこで今度は学校を市内に分けて作ろうということになり、博労、定塚、川原の3つの学校ができたのです。

明治35年4月、名前を博労町尋常小学校と変え、6月に木造2階建ての校舎が完成しました。そのころの子どもたちは着物に下駄ばき、本を風呂敷に入れてかついで学校へ行きました。

 

2.体育博労

この写真は大正5年から昭和12年まで、22年間博労小学校の校長をしておられた岡村直吉校長先生です。

 岡村校長先生は子どもたちのよいところをのばし、勉強と運動にがんばりを出させようと考え、

「最善の努力」と「真剣なる実行」

という子どもたちや先生のめあてをたてられました。

岡村校長先生は特に運動に力を入れられ、博労小学校は市の連合運動会では毎年優勝していました。

「体育博労」と呼ばれ、子どもたちがつける空色のはちまきはほかの学校の子どもたちから恐れられていたそうです。

 

 

3.泰山木と校歌

 学校のシンボル泰山木(タイサンボク)は学校ができたころからありましたが、台風や工事で根をいためてしまい、昭和30年ころには枯れそうになってしまいました。そこでその年の卒業生がお金を出し合って新たに6本の泰山木が植えられました。この年は校歌もできた年です。

 当時の島木茂樹校長先生は、校歌を作るとき歌詞に「二上山」と「千保川」、とくに「泰山木」を歌いこんでほしいという強い願いをもっておられ、作詞された大島文雄先生にお願いされたそうです。

 

4.校舎

 昔の校舎は、昔は講堂(こうどう)といっていた体育館を中心に4つの庭があり、「遊具の庭」、「花壇と池と泰山木の庭」、「にわとりとうさぎを飼っていた庭」、「林のように木が茂っていた庭」に分かれていました。

 1年生から4年生の教室にあったすべり階段は、通りかかると必ずだれかがすべっていました。

 立派な中央玄関から校長室、講堂へ通じるろうかには卒業生作品が展示してありました。

 昭和49年、現在の校舎が完成した写真です。それまでの校舎は昭和12年に建てられたものでしたが、古くてせまくなったので建てかえました。

 そのころの卒業アルバムには、新校舎と旧校舎の並んだ写真が大きく写っています。旧校舎が新校舎に「あとはたのんだぞ」と語りかけ、新校舎は「しっかり博労の伝統を受け継いでいくよ」と答えているように見えます。